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2019年8月14日水曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その19


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
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12ページ最下から13ページ上
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(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-3- ロマン・マースは叫んだ




リュションをスタートする時、
ツールの事務責任者のリュシアン・キャザリス(※1)は、
ロマン・マースがゼッケンを付けていないのをじっと目で追いかけ、
古風な呼び止め方をした。


「エーラ! 君君!ゼッケンを付け忘れたのか!」


(※1) Lucien Cazalis
こんな堅物で大声で、少しピントのずれたイメージの人物だったようです。
Mon Tour de France 1959  のちょうど真ん中あたりの漫画↓
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小柄なロマン・マースは、乗車したまま若鶏のように上体で向きなおり、
着ているマイヨジョーヌを指でつまんで、笑ったような怒ったような表情で答えた。



「そっちからこの黄色いのを着ろと言われたんだが、
 こいつにまでナンバーが要るのか?」



-4- キャプテンはなんとか首位を守った。


そのロマン・マースだが、
リュション-ポーのステージで彼がマイヨジョーヌを失わなかったのは、
繰り返すようだが、本当に奇跡としか言いようがない。




ベルギーチームのキャプテンである彼は、
前のステージでのくたくたの状態のままで、このレースに臨んでいたからだ。




昨夜もポーで、それを裏付けるような話を耳にした。




バッテバテのロマン・マースは、
こっそりサポートカーに引っぱってもらっていたらしく、
間の悪いことに、その様子が写真にしっかり撮られていたというのだ。




ほかにも、
年配の観客の頭の上に空のボトルを置こうとして、
誤って彼の眼鏡を壊し、あやうく事故になりかけたらしい。




これはまあファンサービス、シャッターチャンスサービスのつもりだったのだろう
という事で笑い話で済んだが、
車に引っぱってもらった件については、
コミッショナーとしても大袈裟にはしたなかったものの、
写真が撮られてしまった以上放っておくわけにもいかず、
結局、サポートカーにペナルティーが科せられた。




そのサポートカーは、
ジャン・アールツ、シルフェーレ・マース、フェルファッケなど
ロマン・マースと同じフラマン人のための車であり、
ペナルティの内容によっては、さらに自分たちが苦しくなる。




こんな風にロマン・マースが何とか首位にいるのは、
チームメートやスタッフの並々ならぬ支えによるものなのだ。




(※) ペナルティを受けたサポートカーは、こんなクラシックカーなんでしょうね。



ーつづくー

この記事は、2016/10/16(日) 午後0:51にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その18


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
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12ページの下段
イメージ 1
(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-2- ついてないリュオズィ




ニースっ子、ギャビー・リュオズィは、
今回のツール・ド・フランスの間ずっと、信じられない不運に付きまとわれた。




どの山岳ステージでも彼は間違いなくトップクライマーの一人だったが、
同時にどうしようもなくツキのない選手でもあった。




そしてそれは、
他のどの山岳ステージより厳しいピレネーステージでも、相変わらずだった。




ペルスールド峠で、
リュオズィはフェルファッケと共に先頭で通過したが、その下りで1回目のパンク。

アスパン峠の頂上では、
先頭から3分30秒差で通過した直後に再度パンク。

そして、気を取り直して下りはじめて300mでまたパンク。




もう予備タイヤも底をつき、手の施しようがなくなって、
さすがにこの時は、自転車を側溝に落としたまま頭を抱え、
リタイヤを覚悟した。




捨てる神あれば拾う神あり。

その時、心優しいベノア・フォーレが立ち止まり、
ツーリスト・ルーティエクラスのライバルでもあるリュオズィに、
予備のタイヤを投げ渡してくれたのだった。

まるで、溺れる者に浮き輪を投げるように。



(※) Miroir des Sportsではパンクは不運で片づけられてますが、
Match l'Intranではパンクの様子がいっぱいレポートされています。


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待ちかまえていたかのような手際良さ!
ロマン・マースは、パンクに次ぐパンクでタイヤ交換に追われた。



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ペルスールド峠への登りで、アーシャンボーがパンクでタイヤ交換。
モアノーは一緒に行こうと、向こうでゆっくり走って待っている。



イメージ 4
シルフェーレ・マースは、トゥルマレ峠からの下りでパンクするが、
わき目もふらず必死でタイヤ交換した。

(※) この当時、山岳ステージは舗装されているわけでもなく、
  パンクは不運というよりはむしろ、想定すべき出来事だったようです。
  パンクしないように注意して走るとか、素早くタイヤ交換できることも
  大切なテクニックの一つだったかもしれません。

  単なる想像ですが、もしかすると、
  モレリ、ティアーニなどイタリア勢が勝ったのも、
  Giro d'Italiaで悪路の山岳ステージに慣れていて、
  多少重くても丈夫なタイヤを使っていたというようなこともあったのかも。



ーつづくー

この記事は、2016/9/19(月) 午後6:39にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。