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2019年8月14日水曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その22


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー


14~15ページです。
14ページは水泳の記事です。15ページを解読しましょう。




15ページ上写真
イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)

あん? もっとカメラから離れろってか?

ムッシュー・アンリ・デグランジュは、
カメラマンにわざと噛みつくように言った。

”ツールの父”のその言葉に、
国内外のジャーナリスト、大会役員、アントナン・マーニュ(杖の人)の皆が笑った。




イメージ 2
(※) アンリ・デグランジュは、こっち向いて噛みついている爺さんです。



15ページ中段は、記録一覧




15ページ下の挿絵
イメージ 1

山岳地の寒暖の差の恐ろしいこと。
このステージのスタートでは半袖だったが、すぐに防寒服を着こむことになった。




イメージ 2
選手が到着するまでの間、地元の写真屋のひな壇は団体客が絶えることがない。

街道の巨人が宿泊するホテルの前では、
若いファンが直筆サインをもらおうと待ち構えている。

RED TdF 1935

(※) REDというのは、当時の画家、漫画家です。



イメージ 3

「ツールドフランスの画家、漫画家」という本があって、
その中で紹介されています。

イメージ 4


ミロワール・デ・スポール 長期間掲載

RED

ミロワール・デ・スポール誌のツール発展期の代名詞
古き良き時代のユーモアコラムのような素朴な視点
子供のころ親しんだポエムを思いだす筆致
ツールがくる日の皆のざわめき
ツールのきらきらした光景
大レースへの素直な賛美と、少し冷めた嘲い


本名ルネ・エミール・デュロン・ロワ(1894-1970)。
DERと署名することもある彼は、
15年もの間ツールの全コースをジャック・ゴデと一緒に回り、
REDの名でポエムの世界を展開した。


短時間で書き上げるため、硬い印象を与える細線の描写だが、
境界線をなくして、様々な場面を所狭しと書き並べるスタイルは、
どこから読んだらよいのかぼんやりしているが、
そこがまたこの絵の世界に合っていもいる。



ツールの画家、漫画家で有名どころのそろい踏みの図です。
REDは下段の右から3番目。
イメージ 5

自転車にとどまらず多くの挿絵を描き、文字と写真がほとんどのスポーツ誌面に
遊び心を添えました。



ーつづくー

この記事は、2016/12/18(日) 午後5:02にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その21


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2



13ページ下段
イメージ 1
(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-6- フランスチームの課題



では、われらフランス勢の課題は何だろうか?
みなもう、やる気が失せているかと心配したが、雰囲気は妙に明るい。




彼らはまだ、スペシェがツールの総合優勝者になるかもしれないと、
希望を捨てていないようにも見える。




しかしそれをやってのけるための、マキャヴェリなみの秘策(※1)
あるとも思えない。 全く謎だ!


(※1) 裏切りや欺きもいとわないような、
  びっくりする戦略という意味ですね。



ルデュック、ル・グレヴェ、モアノー、ヴィエト、フォントネー、アーシャンボー
と同じように、スペシェまでもが皆一様に、こう言っている。




「諦めるのはまだ早いさ。
 まだ何が起こるかわからないし、みんなもそれを期待しているんだろ。」



イメージ 2
1935年7月2日 第29回ツール・ド・フランス直前号の表紙
フランスナショナルチーム集合写真





イメージ 3
左から、アーシャンボー、(まじめで賢そうなアドバイザー)マーニュ、
(王選手に似た)スペシェ、ルデュック、(クラーク・ケント風の)ドゥベンヌ、
ル・グレヴェ、(男前)ヴィエト、メルヴィエル




イメージ 4
表紙をめくると、各選手の走っている姿が並べられた洒落た誌面



フランスチームの戦略は、
怪我で戦線離脱したアントナン・マーニュが受け持っているのだが、
選手たちの様子を見ていると有効な手が打つことができているのか
心配になる。




アーシャンボーは、ツール後に、
l’U.V.F.(※2)から推挙されて、スペシェやル・グレヴェと一緒に、
ブリュッセルで開催されるトラック世界選手権に出場することになっているのだが、
マーニュが特に指導しているはずなのにこんな冗談まで言い出す始末だ。


(※2) l’U.V.F Union Vélocipédique de France
  フランス自転車連合 今のFFCの前身です。



「あーついてない。
 この大会が終わったら釣りにでも行こうと思っていたのに、
 パリまで戻ったらその足で次の大会に出発するんだよ。
 ああ忙しい!」



レイモン・ユティエ


(※) レイモン・ユティエは、
  自国チームの選手たちが、必ずしもツールに集中できていないことを
  嘆いているようです。



ーつづくー

この記事は、2016/12/10(土) 午後7:10にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その20


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ



ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2



13ページ中段
イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-5- 休息日




ポーでの休息日は、これまでの休息日とは様子が違う。



好成績に向けてやる気満々の選手もいれば、
巻き返しが難しく半ばあきらめかけている選手もいるが、
皆の表情にはおしなべて
文字通り最後の”山場”、それがもう過ぎたという安堵感がうかがわれる。




山岳地は息つく暇もなく、あらん限りの力を振り絞って走らなければならないが、
平地のコースなら、タイムトライアルだろうが、通常のレースだろうが、
消耗も大したことはない。




選手みなにある同じ思いは、今日はひと心地つける日だという事だ。
「やっと、苦しみと畏さから解放された~。」




山岳地では、命の危機でもなければ、だれも助けてはくれない。

曲がり角で、狭い道で、車体が跳ねたり、滑ったり。
彼らはいつも、転倒の、転落の、
そしてその結果、怪我で競技ができなくなる脅威にさらされている。




あえて誰とは言わないが、あるベルギー選手などは、
ガップの出口、ヴァール峠とアロ峠の手前で、べそをかきながらもがいていたのだ。
一国の代表たる者がここまで苦しんでいるのを見たことがなかった。



イメージ 2



「ウォー! もうやめたい! もうたくさんだ。
 俺には、かみさんも子供もいるんだぞ。 何かあったらどうしてくれるんだ。
 昨日、タイヤ外れが相次いで、頭から血を流して運ばれていた奴もいたが、
 俺もいつかそうなってしまう!」



とは言え、泣き言の本人は今も元気で走っていて、大した事故には遭っていない。


こんな感じなので、
最後の山場も何とか凌いでポーにたどり着いたという選手たちのホッとした気持ちは
よくわかる。



しかし、ただのんびりムードとは少し違う。
レースの前日は、大抵ワクワクし、目を輝かせ、誇らしげで明るい雰囲気だが、
今日の各チームは決してそうではない。



今この時、残りの5ステージをどのように挑むのか、
それぞれの課題を抱えて、重苦しい空気が漂っている。




ベルギー勢の課題は、チームのまとまりを今一度強めることだが、
それほど案ずることはない。




ロマン・マースが2分57秒の差をつけて総合首位を保っている。
フラマン人選手に先導させて、着々とレースをこなせばよい。




実際、ベルギー勢にはそれほど追い詰められた様子は見受けられない。

山岳ステージを乗り切った今となっては、
平坦なステージにもタイムトライアルにも強いロマン・マースが、
そうやすやすと大敗するとも思えない。




では対するイタリア勢の課題はというと、
自分だけでは何とも解決しづらい、変な問題に直面しているという事だ。



第19ステージの後半、
ロシュ=シュル=ヨンからナントへのコースで
チームタイムトライアルが行われる予定だが、
イタリア選手はモレリとティアーニの二人しか残っておらず、
チームそのものが組めないのだ。



人数が足りないのに、いったいどうしろというのだ?
イタリアの二人の困惑する顔が目に浮かぶ。




これに対しては、
ベルギー、イタリア、ドイツ、そしてフランスのコミッショナーが、
何度も顔を突き合わせて話し合いを重ね、
ドイツ選手、スペイン選手、スイス選手を交代で、
あるいは、
イタリアチームによってピックアップされたツーリスト・ルーティエクラスの選手を
加えることを提案した。




しかしそういうやり方で人数合わせはできるとしても、
二人のイタリア人をはじめ、他の選手やファンは、それで納得できるだろうか?


一番わかりやすいやり方は、
ポー以降に予定されているチームタイムトライアルステージ全てを無くしてしまう
事のように思う。




ツールのルールを変更することは容易ではないが、選手が声を上げればよい。



「あのー、私がサインした参加誓約書には
 決められたルールに従い異議は申し立てないと書いてありました。

 でも、ツールに勝つよう全力を尽くせって言うためのルールなんだから、
 今回のタイムトライアルステージのように、
 選手がなんだかなぁと感じるような状況なら
 やめてしまってもいいのではないでしょうか。」

なんてね。 それしかないだろ?



(※) チームタイムトライアルをなくしてしまえという論調のようですが、
  実際にはその後1回のタイムトライアルと2回のチームタイムトライアルが
  おこなわれました。

  しかも第20ステージの第2レースでは、
  急造チームのはずのイタリアのアンブロッジオ・モレリが勝っています。



ーつづくー

この記事は、2016/11/27(日) 午後9:49にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その19


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




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12~13ページです。
イメージ 2



12ページ最下から13ページ上
イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-3- ロマン・マースは叫んだ




リュションをスタートする時、
ツールの事務責任者のリュシアン・キャザリス(※1)は、
ロマン・マースがゼッケンを付けていないのをじっと目で追いかけ、
古風な呼び止め方をした。


「エーラ! 君君!ゼッケンを付け忘れたのか!」


(※1) Lucien Cazalis
こんな堅物で大声で、少しピントのずれたイメージの人物だったようです。
Mon Tour de France 1959  のちょうど真ん中あたりの漫画↓
イメージ 2



小柄なロマン・マースは、乗車したまま若鶏のように上体で向きなおり、
着ているマイヨジョーヌを指でつまんで、笑ったような怒ったような表情で答えた。



「そっちからこの黄色いのを着ろと言われたんだが、
 こいつにまでナンバーが要るのか?」



-4- キャプテンはなんとか首位を守った。


そのロマン・マースだが、
リュション-ポーのステージで彼がマイヨジョーヌを失わなかったのは、
繰り返すようだが、本当に奇跡としか言いようがない。




ベルギーチームのキャプテンである彼は、
前のステージでのくたくたの状態のままで、このレースに臨んでいたからだ。




昨夜もポーで、それを裏付けるような話を耳にした。




バッテバテのロマン・マースは、
こっそりサポートカーに引っぱってもらっていたらしく、
間の悪いことに、その様子が写真にしっかり撮られていたというのだ。




ほかにも、
年配の観客の頭の上に空のボトルを置こうとして、
誤って彼の眼鏡を壊し、あやうく事故になりかけたらしい。




これはまあファンサービス、シャッターチャンスサービスのつもりだったのだろう
という事で笑い話で済んだが、
車に引っぱってもらった件については、
コミッショナーとしても大袈裟にはしたなかったものの、
写真が撮られてしまった以上放っておくわけにもいかず、
結局、サポートカーにペナルティーが科せられた。




そのサポートカーは、
ジャン・アールツ、シルフェーレ・マース、フェルファッケなど
ロマン・マースと同じフラマン人のための車であり、
ペナルティの内容によっては、さらに自分たちが苦しくなる。




こんな風にロマン・マースが何とか首位にいるのは、
チームメートやスタッフの並々ならぬ支えによるものなのだ。




(※) ペナルティを受けたサポートカーは、こんなクラシックカーなんでしょうね。



ーつづくー

この記事は、2016/10/16(日) 午後0:51にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その18


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




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12~13ページです。
イメージ 2



12ページの下段
イメージ 1
(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-2- ついてないリュオズィ




ニースっ子、ギャビー・リュオズィは、
今回のツール・ド・フランスの間ずっと、信じられない不運に付きまとわれた。




どの山岳ステージでも彼は間違いなくトップクライマーの一人だったが、
同時にどうしようもなくツキのない選手でもあった。




そしてそれは、
他のどの山岳ステージより厳しいピレネーステージでも、相変わらずだった。




ペルスールド峠で、
リュオズィはフェルファッケと共に先頭で通過したが、その下りで1回目のパンク。

アスパン峠の頂上では、
先頭から3分30秒差で通過した直後に再度パンク。

そして、気を取り直して下りはじめて300mでまたパンク。




もう予備タイヤも底をつき、手の施しようがなくなって、
さすがにこの時は、自転車を側溝に落としたまま頭を抱え、
リタイヤを覚悟した。




捨てる神あれば拾う神あり。

その時、心優しいベノア・フォーレが立ち止まり、
ツーリスト・ルーティエクラスのライバルでもあるリュオズィに、
予備のタイヤを投げ渡してくれたのだった。

まるで、溺れる者に浮き輪を投げるように。



(※) Miroir des Sportsではパンクは不運で片づけられてますが、
Match l'Intranではパンクの様子がいっぱいレポートされています。


イメージ 2
待ちかまえていたかのような手際良さ!
ロマン・マースは、パンクに次ぐパンクでタイヤ交換に追われた。



イメージ 3
ペルスールド峠への登りで、アーシャンボーがパンクでタイヤ交換。
モアノーは一緒に行こうと、向こうでゆっくり走って待っている。



イメージ 4
シルフェーレ・マースは、トゥルマレ峠からの下りでパンクするが、
わき目もふらず必死でタイヤ交換した。

(※) この当時、山岳ステージは舗装されているわけでもなく、
  パンクは不運というよりはむしろ、想定すべき出来事だったようです。
  パンクしないように注意して走るとか、素早くタイヤ交換できることも
  大切なテクニックの一つだったかもしれません。

  単なる想像ですが、もしかすると、
  モレリ、ティアーニなどイタリア勢が勝ったのも、
  Giro d'Italiaで悪路の山岳ステージに慣れていて、
  多少重くても丈夫なタイヤを使っていたというようなこともあったのかも。



ーつづくー

この記事は、2016/9/19(月) 午後6:39にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

2019年8月13日火曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その17


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2

(茶色の文字が写真の説明文です。)



12ページ上の写真
イメージ 1
ピレネーの峠、そしてポーへ、ずっと励まし合ったコンビ
ティアーニはロシアンビリヤードに興じ、
さらに日焼けしたモレリは自分の番を待っている。

(※) キューを立て気味に持っているのがモレリ



12ページ中段の写真
イメージ 3
左写真:
アンリ王時代の古都(※1)の当時の二頭立て荷車
アールツは、二頭の牛と遅さ比べを始めた。

右写真:
荷台に乗っかっているのは、左から右へ、
ベルトッコ(※2)、ガルシア(※3)、ベノワ・フォーレ(立っている人)、
ポール・ショック、ジャン・アールツ

(※1) ポーは、アンリ4世の生まれ故郷のようです。
  アンリ4世は、日本でいうと安土桃山時代から江戸時代初期の人物で、
  在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人
  だそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ4世_(フランス王)

(※2) Aldo Bertocco アルド・ベルトッコ
  フランス ツーリスト・ルーティエクラス参加

(※3) Manuel Garcia マヌエル・ガルシア
  フランス ツーリスト・ルーティエクラス参加



12ページ下の写真
イメージ 4
ピレネーでの自分の記憶を思い起こしながら、興味津々に記事読む。

左から右へ、3人のツーリスト・ルーティエ選手、
 ベノワ・フォーレ、モクレール(※4)、ショック。
モン=ルイ、ピュイモラン、ポリテ・ダスペ峠、アル峠のステージ(※5)
写真を見ながら思い出している。

(※4) Joseph Mauclair ジョゼフ・モクレール
  フランス ツーリスト・ルーティエ参加
  L’Union Vélocipédique de Reims ランス・ヴェロシペド連合のメンバー
  だそうです。

(※5) 一つ前のステージ、第15ステージです。



13ページ上の写真
イメージ 1
ポーの青空のもと、テラスでのひとコマ。
左から右へ、
 ベルギー人ディグネフ(※6)と、3人のツーリストルーティエ達、
 ファヨル(ニース)、リュオズィ(ニース)、ユベツ(ラン)(※7)

彼らはデッドラインタイムをオーバーしてポーに到着したが、
コミッショナーによって救済されることになった。

(※6) Antoine Dignef アントワーヌ・ディグネフ ベルギー人、個人参加。
  この年から開催されたプエルタ・ア・エスパーニャの第1ステージで勝利。
  したがって、大会史上初めてマイヨ・ロホの袖に手を通した男。
  だそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/マイヨ・ロホ

(※7) Georges Hubatz ジョルジュ・ユベツ
  フランス人、ツーリスト・ルーティエ参加



13ページ下写真
イメージ 2
シャルル・ペリシェ
ピレネーで隠遁生活を決め込んでいた彼は、レース勘を呼び戻すことができるだろうか?



人気者シャルロ(※8)は、

1929年のツールで最終成績26位、1930年は8つもステージ勝利を挙げたにも関わらず、
優勝のルデュック(※9)、マーニュ、グエッラ(※10)らに及ばず9位、1931年は13位。
久々の出場となった今年は、初心に戻って出直しの年のようだ。
(※8) シャルロ
  チャールズ・チャップリンのフランスでの愛称ですが、
  ファーストネームのスペルが同じなので、
  シャルル・ペリシェにも使われたようです。

(※9) André Leducq アンドレ・ルデュック
  フランスナショナルチーム参加

(※10) Learco Guerra  レアルコ・グエッラ イタリア人。
  人間機関車と言われた名選手だそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/レアルコ・グエッラ



ーつづくー

この記事は、2016/8/18(木) 午後6:37にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その16


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




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12~13ページです。
イメージ 2


イメージ 1
(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-1- イタリア勢のしたたかさ



今回のツールで生き残っているイタリア人、
と言うよりアルプスの向こう側の麓の住人、モレリとティアーニ、
どんな時も力を合わせて助け合うこの同郷の二人の追撃者たちが、
まぎれもなく、このリュション-ポーのステージの主役だった。




トゥルマレ峠を過ぎてから、この二人は、
まごついているベルギー勢を置き去りにし、
オービスク峠でトップ通過のボーナスタイムをやすやすと獲得し、
総合順位でもモレリが首位に立つ勢いだった。




イメージ 2
トゥルマレ峠へ向かうモレリ、ティアーニ、シルフェーレ・マース。

(※) これは、Match l'Intranという別の写真スポーツ新聞の同日号です。
  Match l'Intranとは「妥協のない戦い」という意味で、
  近頃の言い方で言うと「絶対に負けられないたたかい」でしょうか。
  見開きが写真ページが60cmもありド迫力なスポーツ新聞です。



ツールのルールで、大きな峠の頂上をトップで通過した選手は、
2番目に通過した選手との時間差の分、
最大2分までのボーナスタイムを上積みすることができる。




このルールを最大限活用するため、オービスク峠で、
屈強ティアーニは、相棒モレリを献身的に引っ張った後、
峠の手前で自ら数十メートル後退し、わざとモレリに2分10秒の差をつけさせた。

こうしてモレリは目いっぱいのボーナスタイム2分を手に入れた。




さらにゴールでは、もっと良いコンビネーションを見せた。

峠での1位と2位の差に応じて与えられる最大2分のボーナスタイム、
ステージ勝者に与えられる通常の1分30秒のボーナスタイムの他に、
さらに別のボーナスもある。




今回ツールの全21ステージの各勝者の中で、
2位に最も大きなタイム差をつけた勝者には1万フラン(※1)の懸賞金が贈られる。




このリュションーポーのステージでの勝利をほぼ手中にした二人のイタリア人選手は、
名高いこの懸賞金を獲得する千載一遇のチャンスも逃さなかった。


(※1) 当時の1万フランはどれくらいなのか調べてみると、
  1920年の1フランは約0.16円、戦前の1円は現在の価値で3000~7000円
  らしいので、当時の1万フランは、現在の800万~1千万円くらいかな?
  また当時、1万フランという金額には、
  フランス人選手よりイタリア人選手の方がより大きな魅力を感じていたでしょう。



ティアーニは急ブレーキをかけ、
ひたすら前を向いて進んでいるスプリンターでもあるモレリを先へ行かせたのだ。




ゴールでは、二人の差は5分10秒となり、
この時点でモレリはあの莫大な賞金を手にする最右翼に躍り出ることになった。

(※) 後で山分けする算段だったんでしょうね。



ーつづくー

この記事は、2016/9/11(日) 午後5:29にYahooブログに掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その15


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

10~11ページの右の④⑤です。

イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)


[特別配信]ポー、火曜夜

モレリ、リールで39位も、ポーでは2位に躍進




アルプスの向こう側の麓、ネルビアーノっ子のアンブロッジオ・モレリは、
スタート地パリでは
イタリアナショナルチームをサポートする個人参加に過ぎなかったが、
過酷なツールを生き残り、リュション-ポーのステージでは勝利をもぎ取り、
ついにトップに2分57秒差の総合2位につけた。




しかし、このイタリア人アスリートはスロースタートだった。
最初のステージ、パリ-リールで39位、トップから12分遅れだった。




そこから、モレリは総合順位をじりじりと上げる。
シャルルヴィルで20位、メッスで20位、ベルフォールで17位、エヴィアンで15位。



イメージ 2
(※) この年の7月2日号の記事の中にある小さなルートマップです。
  パリから北のリールに向けて出発し、
  そこからベルギー、スイス、イタリアとの国境に沿って南下し、
  時計回りに進みます。
  余談ですが、よく雑誌に綴じ込んであるようなポスターサイズの地図は、
  コレクターに人気があってなかなか手に入りません。



そして、アルプスの最初のステージで大きく飛躍した結果、
エクス=レ=バンでは総合9位につけ、
さらにそこからグルノーブルへのステージでは、
同胞カムッソ(※1)に続いて2位でゴール。


(※1) Francesco Camusso フランチェスコ・カムッソ
  イタリアナショナルチーム
  第7ステージ勝利 第15ステージで棄権
  現役時代はクライマーとして名を馳せたそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/フランチェスコ・カムッソ



そのあたりから、彼は、
スペシェ、カムッソ、シルフェーレ・マース、フェルファッケ達と共闘しながら、
上位4人に残るよう戦法をとった。




これがうまく行って、
ニース、このカドリーユ(※2)のシャッセクロス発祥の地では、
首尾よく6分55秒遅れにまで挽回した。

(※2) 男女4組で踊るダンスのことで、
  シャッセクロスはその中の型の一つだそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/カドリーユ



ピレネーの麓、ペリピニャンではまた14分19秒遅れに後退してしまったが、
この遅れが、たまたまグルノーブルでのタイム差と同じであったのは、
この先また彼の進撃を予感させるようだった。




そしてその予感は、
オービスク峠での神がかった登りとして現実のものとなり、
マイヨジョーヌの運び屋、ロマンマースに2分57秒差に迫り、
彼を慌てさせることになった。




しかしモレリも若手ではない。もう30歳、ツールも3回目だ。
昨年もデーニュでは
アントナン・マーニュ、マルターノに次いで総合3位まで詰め寄るも、
最終順位は6位に終わっている。




-まあ見てろって。



これまでの戦いを振り返りながら、彼は言い放った。



-俺はエンジンのかかりが遅いので、
 ツールの最初の数ステージで不調なのはいつものことだし、
 今日2位になったのも驚くほどのことではないよ。


 ツールはまだこれからだ。
 パリに着くときには俺が一番になっているから楽しみにしていろよ。




期待しよう。


JEAN ROUTIER.
ジャン・ルティエ(※3)


(※3) 先のレイモン・ユティエと同じく、
  この時代のスポーツジャーナリストです。
  検索してみても、ポツポツと引っかかるのですが、
  著作もあるのかどうかなど詳細は不明です。



ーつづくー

この記事は、2016/8/17(水) 午前1:00にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。