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2019年8月13日火曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その17


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2

(茶色の文字が写真の説明文です。)



12ページ上の写真
イメージ 1
ピレネーの峠、そしてポーへ、ずっと励まし合ったコンビ
ティアーニはロシアンビリヤードに興じ、
さらに日焼けしたモレリは自分の番を待っている。

(※) キューを立て気味に持っているのがモレリ



12ページ中段の写真
イメージ 3
左写真:
アンリ王時代の古都(※1)の当時の二頭立て荷車
アールツは、二頭の牛と遅さ比べを始めた。

右写真:
荷台に乗っかっているのは、左から右へ、
ベルトッコ(※2)、ガルシア(※3)、ベノワ・フォーレ(立っている人)、
ポール・ショック、ジャン・アールツ

(※1) ポーは、アンリ4世の生まれ故郷のようです。
  アンリ4世は、日本でいうと安土桃山時代から江戸時代初期の人物で、
  在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人
  だそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ4世_(フランス王)

(※2) Aldo Bertocco アルド・ベルトッコ
  フランス ツーリスト・ルーティエクラス参加

(※3) Manuel Garcia マヌエル・ガルシア
  フランス ツーリスト・ルーティエクラス参加



12ページ下の写真
イメージ 4
ピレネーでの自分の記憶を思い起こしながら、興味津々に記事読む。

左から右へ、3人のツーリスト・ルーティエ選手、
 ベノワ・フォーレ、モクレール(※4)、ショック。
モン=ルイ、ピュイモラン、ポリテ・ダスペ峠、アル峠のステージ(※5)
写真を見ながら思い出している。

(※4) Joseph Mauclair ジョゼフ・モクレール
  フランス ツーリスト・ルーティエ参加
  L’Union Vélocipédique de Reims ランス・ヴェロシペド連合のメンバー
  だそうです。

(※5) 一つ前のステージ、第15ステージです。



13ページ上の写真
イメージ 1
ポーの青空のもと、テラスでのひとコマ。
左から右へ、
 ベルギー人ディグネフ(※6)と、3人のツーリストルーティエ達、
 ファヨル(ニース)、リュオズィ(ニース)、ユベツ(ラン)(※7)

彼らはデッドラインタイムをオーバーしてポーに到着したが、
コミッショナーによって救済されることになった。

(※6) Antoine Dignef アントワーヌ・ディグネフ ベルギー人、個人参加。
  この年から開催されたプエルタ・ア・エスパーニャの第1ステージで勝利。
  したがって、大会史上初めてマイヨ・ロホの袖に手を通した男。
  だそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/マイヨ・ロホ

(※7) Georges Hubatz ジョルジュ・ユベツ
  フランス人、ツーリスト・ルーティエ参加



13ページ下写真
イメージ 2
シャルル・ペリシェ
ピレネーで隠遁生活を決め込んでいた彼は、レース勘を呼び戻すことができるだろうか?



人気者シャルロ(※8)は、

1929年のツールで最終成績26位、1930年は8つもステージ勝利を挙げたにも関わらず、
優勝のルデュック(※9)、マーニュ、グエッラ(※10)らに及ばず9位、1931年は13位。
久々の出場となった今年は、初心に戻って出直しの年のようだ。
(※8) シャルロ
  チャールズ・チャップリンのフランスでの愛称ですが、
  ファーストネームのスペルが同じなので、
  シャルル・ペリシェにも使われたようです。

(※9) André Leducq アンドレ・ルデュック
  フランスナショナルチーム参加

(※10) Learco Guerra  レアルコ・グエッラ イタリア人。
  人間機関車と言われた名選手だそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/レアルコ・グエッラ



ーつづくー

この記事は、2016/8/18(木) 午後6:37にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その16


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2


イメージ 1
(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-1- イタリア勢のしたたかさ



今回のツールで生き残っているイタリア人、
と言うよりアルプスの向こう側の麓の住人、モレリとティアーニ、
どんな時も力を合わせて助け合うこの同郷の二人の追撃者たちが、
まぎれもなく、このリュション-ポーのステージの主役だった。




トゥルマレ峠を過ぎてから、この二人は、
まごついているベルギー勢を置き去りにし、
オービスク峠でトップ通過のボーナスタイムをやすやすと獲得し、
総合順位でもモレリが首位に立つ勢いだった。




イメージ 2
トゥルマレ峠へ向かうモレリ、ティアーニ、シルフェーレ・マース。

(※) これは、Match l'Intranという別の写真スポーツ新聞の同日号です。
  Match l'Intranとは「妥協のない戦い」という意味で、
  近頃の言い方で言うと「絶対に負けられないたたかい」でしょうか。
  見開きが写真ページが60cmもありド迫力なスポーツ新聞です。



ツールのルールで、大きな峠の頂上をトップで通過した選手は、
2番目に通過した選手との時間差の分、
最大2分までのボーナスタイムを上積みすることができる。




このルールを最大限活用するため、オービスク峠で、
屈強ティアーニは、相棒モレリを献身的に引っ張った後、
峠の手前で自ら数十メートル後退し、わざとモレリに2分10秒の差をつけさせた。

こうしてモレリは目いっぱいのボーナスタイム2分を手に入れた。




さらにゴールでは、もっと良いコンビネーションを見せた。

峠での1位と2位の差に応じて与えられる最大2分のボーナスタイム、
ステージ勝者に与えられる通常の1分30秒のボーナスタイムの他に、
さらに別のボーナスもある。




今回ツールの全21ステージの各勝者の中で、
2位に最も大きなタイム差をつけた勝者には1万フラン(※1)の懸賞金が贈られる。




このリュションーポーのステージでの勝利をほぼ手中にした二人のイタリア人選手は、
名高いこの懸賞金を獲得する千載一遇のチャンスも逃さなかった。


(※1) 当時の1万フランはどれくらいなのか調べてみると、
  1920年の1フランは約0.16円、戦前の1円は現在の価値で3000~7000円
  らしいので、当時の1万フランは、現在の800万~1千万円くらいかな?
  また当時、1万フランという金額には、
  フランス人選手よりイタリア人選手の方がより大きな魅力を感じていたでしょう。



ティアーニは急ブレーキをかけ、
ひたすら前を向いて進んでいるスプリンターでもあるモレリを先へ行かせたのだ。




ゴールでは、二人の差は5分10秒となり、
この時点でモレリはあの莫大な賞金を手にする最右翼に躍り出ることになった。

(※) 後で山分けする算段だったんでしょうね。



ーつづくー

この記事は、2016/9/11(日) 午後5:29にYahooブログに掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その15


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

10~11ページの右の④⑤です。

イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)


[特別配信]ポー、火曜夜

モレリ、リールで39位も、ポーでは2位に躍進




アルプスの向こう側の麓、ネルビアーノっ子のアンブロッジオ・モレリは、
スタート地パリでは
イタリアナショナルチームをサポートする個人参加に過ぎなかったが、
過酷なツールを生き残り、リュション-ポーのステージでは勝利をもぎ取り、
ついにトップに2分57秒差の総合2位につけた。




しかし、このイタリア人アスリートはスロースタートだった。
最初のステージ、パリ-リールで39位、トップから12分遅れだった。




そこから、モレリは総合順位をじりじりと上げる。
シャルルヴィルで20位、メッスで20位、ベルフォールで17位、エヴィアンで15位。



イメージ 2
(※) この年の7月2日号の記事の中にある小さなルートマップです。
  パリから北のリールに向けて出発し、
  そこからベルギー、スイス、イタリアとの国境に沿って南下し、
  時計回りに進みます。
  余談ですが、よく雑誌に綴じ込んであるようなポスターサイズの地図は、
  コレクターに人気があってなかなか手に入りません。



そして、アルプスの最初のステージで大きく飛躍した結果、
エクス=レ=バンでは総合9位につけ、
さらにそこからグルノーブルへのステージでは、
同胞カムッソ(※1)に続いて2位でゴール。


(※1) Francesco Camusso フランチェスコ・カムッソ
  イタリアナショナルチーム
  第7ステージ勝利 第15ステージで棄権
  現役時代はクライマーとして名を馳せたそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/フランチェスコ・カムッソ



そのあたりから、彼は、
スペシェ、カムッソ、シルフェーレ・マース、フェルファッケ達と共闘しながら、
上位4人に残るよう戦法をとった。




これがうまく行って、
ニース、このカドリーユ(※2)のシャッセクロス発祥の地では、
首尾よく6分55秒遅れにまで挽回した。

(※2) 男女4組で踊るダンスのことで、
  シャッセクロスはその中の型の一つだそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/カドリーユ



ピレネーの麓、ペリピニャンではまた14分19秒遅れに後退してしまったが、
この遅れが、たまたまグルノーブルでのタイム差と同じであったのは、
この先また彼の進撃を予感させるようだった。




そしてその予感は、
オービスク峠での神がかった登りとして現実のものとなり、
マイヨジョーヌの運び屋、ロマンマースに2分57秒差に迫り、
彼を慌てさせることになった。




しかしモレリも若手ではない。もう30歳、ツールも3回目だ。
昨年もデーニュでは
アントナン・マーニュ、マルターノに次いで総合3位まで詰め寄るも、
最終順位は6位に終わっている。




-まあ見てろって。



これまでの戦いを振り返りながら、彼は言い放った。



-俺はエンジンのかかりが遅いので、
 ツールの最初の数ステージで不調なのはいつものことだし、
 今日2位になったのも驚くほどのことではないよ。


 ツールはまだこれからだ。
 パリに着くときには俺が一番になっているから楽しみにしていろよ。




期待しよう。


JEAN ROUTIER.
ジャン・ルティエ(※3)


(※3) 先のレイモン・ユティエと同じく、
  この時代のスポーツジャーナリストです。
  検索してみても、ポツポツと引っかかるのですが、
  著作もあるのかどうかなど詳細は不明です。



ーつづくー

この記事は、2016/8/17(水) 午前1:00にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

2019年8月10日土曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その5


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Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ



ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー


前回からの続きで、3ページ目中段の記事部分の後半です。

(茶色の文字が解読結果です。)



そしてついに、
リュション、この第16ステージのスタート地点では、
イタリア人は2人だけになってしまっていた。



一人は、生真面目なモレリ。
彼はツールの常連で、今回も第1ステージからイタリア人の中で一番意欲的、
かつ安定した走りを見せていた。




もう一人は、やる気満々のティアーニ。
兄貴分のデ・パコが棄権した後、逆にチャンスとばかりはりきっていた。




イタリアナショナルチームは時間オーバーで既に全員失格。

この二人は個人参加カテゴリーなのだが、
イタリアチームがパリまで持たないのはまずいとの判断でルールが急遽変更(※1)されて、
個人参加選手でもナショナルチームに繰上げられるようになった。




上位につけていたモレリには、この上ない追い風となった。



(※1) この年の特例として、
 ナショナルチームが人数枠を満たせなくなった場合、
 個人参加選手がナショナルチームに入ることが可能となったようです。
 fr.wikipedia.org

 こういう細かいルール変更は頻繁にあったようですね。
 大会を盛り上げるためとはいえ、
 ほぼ優勝を手中にしたと思っていたベルギーナショナルチームにとっては、
 迷惑な話!



イタリアのファンは皆、もはやこれまでとあきらめ顔だったが、
そんな状況で、その二人のグリーンジャージのイタリア人選手は発奮した。




ペルスールド峠、
すなわちこのステージの4つの大峠のうち最初の峠で、
ダークブルージャージのベルギーチームがアタックをかけても
それに振り切られずについていく2人を見た時、
キャラバンの記者団の皆が驚いたこと!




そればかりか、
手ごわいベルギー選手に食らいつき、隙を見て先頭に出て、
ついには大きく差をつけてゴールしたのを見た時はもっと驚いた。




なんとモレリは、このステージで、
ベルギーナショナルチームのロマン・マースとフェルファッケに
6分あまりもの差をつけたのだ。




昨日まで圧倒的に優勢だったフラマン(※2)の軍団は、
総合2位に勇躍浮上してきたモレリに、足元を脅かされはじめた。



(※2) フラマン人とは、
 北フランスやベルギーに起源をもつオランダ語を話すゲルマン民族で、
 主にフランデレン地域(フランドル)の北部にみられる。
 エディ・メルクスもフラマン人。 だそうです。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/フラマン人

 想像するに、この年のベルギーナショナルチームは、
 フラマン人が多かったのでしょうか。




モレリは、
総合首位のロマン・マースへあと2分57秒に迫り、
フェルファッケには逆に6分18秒リードした。




RAYMOND HUTTIER
レイモン・ユティエ (※3)



二人の勇敢なイタリア人ロード選手
ポーでの凱旋ゴールで、仲間に祝福される二人 上:モレリ、下:ティアーニ)
イメージ 1
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(※3) この記事を書いているレイモン・ユティエという人は、
 今でいうスポーツライター。

 Miroir des Sports誌での記事をはじめ、
 ロードレースをテーマにした著作など、
 戦前戦後のフランスの自転車シーンを描きました。


 これは、1947年のLE CYCLISMEです。
イメージ 1
 まだ読んでないのですが、青少年向きの解説本のようです。
 SIROという漫画家の挿絵がふんだんに使われています。




ーつづくー


この記事は、2015/12/7(月) 午後 8:16 Yahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

2019年8月9日金曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その3

オービスク峠の頂上を越えるモレリ














Miroir des sports紙は週刊なのですが、
ツールが始まると週一では追いつかず、
週3回発行されています。

 MARDI(火曜)は黒褐色インク
 JEUDI(木曜)は緑インク
 SAMEDI(土曜)は赤茶色インク

で印刷されるとタイトルの下に書いてあります。
この号は緑なので木曜号です。





ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー



2~3ページ目はこんな感じ。
イメージ 1



2ページ目(左頁)の下の写真




(茶色の文字が説明文の解読結果です)


旗を振り下ろすのを忘れて大喜びしているBiscot(※)横目に、
モレリはオービスク峠の頂上に引かれたラインを越えながら、
千切れていたトゥーストラップを外してブラケットに取り替えた。




イメージ 3


(※)ジョルジュ・ビスコ、Georges Biscot
 フランス人、無声映画の喜劇俳優、
 その後歌手として各地を回った。
 (fr.wikipedia.org)

 イタリアチームのコーチでは
 ありませんでした。

 ツールが大好きなのか、
 メディアに取り上げられたいのか、
 (おそらくその両方でしょうが)
 ツール関係の写真でよく写っているようです。






3ページ目(右頁)の上の写真




ティアーニ、えらが張ったその男も、彼を見つめる群衆の中オービスク峠を越えた。



ーつづくー

この記事は、2012/7/15(日)午後4:40 Yahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。