2019年8月10日土曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その5


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Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ



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前回からの続きで、3ページ目中段の記事部分の後半です。

(茶色の文字が解読結果です。)



そしてついに、
リュション、この第16ステージのスタート地点では、
イタリア人は2人だけになってしまっていた。



一人は、生真面目なモレリ。
彼はツールの常連で、今回も第1ステージからイタリア人の中で一番意欲的、
かつ安定した走りを見せていた。




もう一人は、やる気満々のティアーニ。
兄貴分のデ・パコが棄権した後、逆にチャンスとばかりはりきっていた。




イタリアナショナルチームは時間オーバーで既に全員失格。

この二人は個人参加カテゴリーなのだが、
イタリアチームがパリまで持たないのはまずいとの判断でルールが急遽変更(※1)されて、
個人参加選手でもナショナルチームに繰上げられるようになった。




上位につけていたモレリには、この上ない追い風となった。



(※1) この年の特例として、
 ナショナルチームが人数枠を満たせなくなった場合、
 個人参加選手がナショナルチームに入ることが可能となったようです。
 fr.wikipedia.org

 こういう細かいルール変更は頻繁にあったようですね。
 大会を盛り上げるためとはいえ、
 ほぼ優勝を手中にしたと思っていたベルギーナショナルチームにとっては、
 迷惑な話!



イタリアのファンは皆、もはやこれまでとあきらめ顔だったが、
そんな状況で、その二人のグリーンジャージのイタリア人選手は発奮した。




ペルスールド峠、
すなわちこのステージの4つの大峠のうち最初の峠で、
ダークブルージャージのベルギーチームがアタックをかけても
それに振り切られずについていく2人を見た時、
キャラバンの記者団の皆が驚いたこと!




そればかりか、
手ごわいベルギー選手に食らいつき、隙を見て先頭に出て、
ついには大きく差をつけてゴールしたのを見た時はもっと驚いた。




なんとモレリは、このステージで、
ベルギーナショナルチームのロマン・マースとフェルファッケに
6分あまりもの差をつけたのだ。




昨日まで圧倒的に優勢だったフラマン(※2)の軍団は、
総合2位に勇躍浮上してきたモレリに、足元を脅かされはじめた。



(※2) フラマン人とは、
 北フランスやベルギーに起源をもつオランダ語を話すゲルマン民族で、
 主にフランデレン地域(フランドル)の北部にみられる。
 エディ・メルクスもフラマン人。 だそうです。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/フラマン人

 想像するに、この年のベルギーナショナルチームは、
 フラマン人が多かったのでしょうか。




モレリは、
総合首位のロマン・マースへあと2分57秒に迫り、
フェルファッケには逆に6分18秒リードした。




RAYMOND HUTTIER
レイモン・ユティエ (※3)



二人の勇敢なイタリア人ロード選手
ポーでの凱旋ゴールで、仲間に祝福される二人 上:モレリ、下:ティアーニ)
イメージ 1
イメージ 2




(※3) この記事を書いているレイモン・ユティエという人は、
 今でいうスポーツライター。

 Miroir des Sports誌での記事をはじめ、
 ロードレースをテーマにした著作など、
 戦前戦後のフランスの自転車シーンを描きました。


 これは、1947年のLE CYCLISMEです。
イメージ 1
 まだ読んでないのですが、青少年向きの解説本のようです。
 SIROという漫画家の挿絵がふんだんに使われています。




ーつづくー


この記事は、2015/12/7(月) 午後 8:16 Yahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。