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2019年8月13日火曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その15


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

10~11ページの右の④⑤です。

イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)


[特別配信]ポー、火曜夜

モレリ、リールで39位も、ポーでは2位に躍進




アルプスの向こう側の麓、ネルビアーノっ子のアンブロッジオ・モレリは、
スタート地パリでは
イタリアナショナルチームをサポートする個人参加に過ぎなかったが、
過酷なツールを生き残り、リュション-ポーのステージでは勝利をもぎ取り、
ついにトップに2分57秒差の総合2位につけた。




しかし、このイタリア人アスリートはスロースタートだった。
最初のステージ、パリ-リールで39位、トップから12分遅れだった。




そこから、モレリは総合順位をじりじりと上げる。
シャルルヴィルで20位、メッスで20位、ベルフォールで17位、エヴィアンで15位。



イメージ 2
(※) この年の7月2日号の記事の中にある小さなルートマップです。
  パリから北のリールに向けて出発し、
  そこからベルギー、スイス、イタリアとの国境に沿って南下し、
  時計回りに進みます。
  余談ですが、よく雑誌に綴じ込んであるようなポスターサイズの地図は、
  コレクターに人気があってなかなか手に入りません。



そして、アルプスの最初のステージで大きく飛躍した結果、
エクス=レ=バンでは総合9位につけ、
さらにそこからグルノーブルへのステージでは、
同胞カムッソ(※1)に続いて2位でゴール。


(※1) Francesco Camusso フランチェスコ・カムッソ
  イタリアナショナルチーム
  第7ステージ勝利 第15ステージで棄権
  現役時代はクライマーとして名を馳せたそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/フランチェスコ・カムッソ



そのあたりから、彼は、
スペシェ、カムッソ、シルフェーレ・マース、フェルファッケ達と共闘しながら、
上位4人に残るよう戦法をとった。




これがうまく行って、
ニース、このカドリーユ(※2)のシャッセクロス発祥の地では、
首尾よく6分55秒遅れにまで挽回した。

(※2) 男女4組で踊るダンスのことで、
  シャッセクロスはその中の型の一つだそうです。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/カドリーユ



ピレネーの麓、ペリピニャンではまた14分19秒遅れに後退してしまったが、
この遅れが、たまたまグルノーブルでのタイム差と同じであったのは、
この先また彼の進撃を予感させるようだった。




そしてその予感は、
オービスク峠での神がかった登りとして現実のものとなり、
マイヨジョーヌの運び屋、ロマンマースに2分57秒差に迫り、
彼を慌てさせることになった。




しかしモレリも若手ではない。もう30歳、ツールも3回目だ。
昨年もデーニュでは
アントナン・マーニュ、マルターノに次いで総合3位まで詰め寄るも、
最終順位は6位に終わっている。




-まあ見てろって。



これまでの戦いを振り返りながら、彼は言い放った。



-俺はエンジンのかかりが遅いので、
 ツールの最初の数ステージで不調なのはいつものことだし、
 今日2位になったのも驚くほどのことではないよ。


 ツールはまだこれからだ。
 パリに着くときには俺が一番になっているから楽しみにしていろよ。




期待しよう。


JEAN ROUTIER.
ジャン・ルティエ(※3)


(※3) 先のレイモン・ユティエと同じく、
  この時代のスポーツジャーナリストです。
  検索してみても、ポツポツと引っかかるのですが、
  著作もあるのかどうかなど詳細は不明です。



ーつづくー

この記事は、2016/8/17(水) 午前1:00にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

2019年8月12日月曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その10

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ウイングナット ペリシェ




















Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー


いろんな地名が出てきてややこしいので、
この辺で本ステージ、リュション―ポーのコースにある峠の整理を。


この図は、ピエール・ロックの「IL TAPPONE」を読んだ時の舞台コース説明図です。

イメージ 1



5ページ目下の解説記事部分のつづき

(茶色の文字が解読結果です。)



ペルスールド峠からの下りでは、
選手たちが巻き上げるひどい砂埃の中を、我々は追いかけた。




この間何もレポートしようがない状況だったが、
それを抜けるとすぐアスパン峠の登りが始まった。




アスパン峠もペルスールド峠に似て、緑に覆われひんやりとした空気に包まれているが、
ペルスールドよりずっと厳しく、困難だった。

イメージ 3
(この写真の説明文)

アスパン峠(1,489m)へ

その登りは、谷間に見えるアローの集落を出てすぐに始まった。

傾斜はきつく、それはこのショットからもよくわかる。

黒っぽいジャージのベルギー勢が引っ張るも、
スイス選手アンベルグ、ハートマン(白っぽいジャージ)とフランス人ジアネロも
まだ食い下がっている。


(※)右奥の山々は、おそらく南東方向のスペインとの国境稜線。



イメージ 4



アロー集落からアスパン峠への登りの拡大地図↓
上の写真は、最初の谷に入って、大きく折り返した途中あたりのショットでしょう。
イメージ 2
イメージ 5
(この写真の説明文)

アスパン峠へ

シルフェーレが手を伸ばして、ライバルの様子を伺う。
リュオズィ(右)、モレリとベルギー勢がその後に続く。
皆、この砂利道を全速力で進んでいる。

(※)前の写真から少し登ったあたりのショットかと。



(本文の続き)

ベルギー勢は、二人のイタリア選手を車列に割り込ませず、
自分たちが守るべきリーダのペースを乱されないように腐心した。



その甲斐あってしばらくはうまく事が運び、
アスパン峠の頂上を、
例のトリオ、ロマン・マース、フェルファッケ、シルフェーレ・マースが首位で通過。

わずかに遅れてロウィエ、アンベルグ、ジアネロが通過した。



後続とのタイム差は、
 ハートマンに1分15秒、
 ポール・ショック(※1)
  見事な巻き返しでこの日の殊勲選手と言えるこのフランス人に2分10秒、
 2人のイタリア人、モレリとティアーニに2分20秒。



その後、
 3分遅れでジャン・アールツ、
 3分30秒遅れでたびたびパンクに見舞われたリュオズィ、
 4分遅れでコガン、
 6分5秒遅れでティエールバッハ(※2)ファヨル(※3)
  プリオール(※4)、ステトラー(※5)
 7分30秒遅れでスペシェ、シャルル・ペリシェ(※6)
  バーナードニ(※7)、アーシャンボー(※8)
  ベノア・ファウル(※9)、カルドナ(※10)
 12分30秒遅れでハンドルが壊れてしまった"悲劇"のヴィエトが続いた。



イメージ 6
(※1) Paul Chocque ポール・ショック
フランス人選手
ツーリスト・ルーティエクラス参加
笑顔がいい選手!
シクロクロスもやっていた人のようです。

イメージ 7
(※2) Oskar Thierbach
オスカル・ティエールバッハ
ドイツナショナルチーム




イメージ 8
(※3)Fernand Fayolle
フェルナン・ファヨル(右側の人)
フランス人
ツーリストルーティエクラス参加
左は、フェルナン・コルネ1m90cm
イメージ 9
(※4)Antonio Prior
アントニオ・プリオール
スペインナショナルチーム
別名アントワーヌ・プリウール
諸般の事情で改名したそうです。


イメージ 10
(※5)Kurt Stettler クルト・ステトラー
スイス人、個人参加
イメージ 11
(※6)Charles Pélissier シャルル・ペリシェ
ペリシェ3兄弟の3番目
1930年のツールで8ステージ勝利
1回で8勝はいまだにレコード
しかもその年2位が7ステージも!
とwikipediaにあります。
この年も第2ステージ勝利
個人参加


ペリシェは自転車やパーツのブランドにもなっています。
イメージ 16



ペリシェのウイングナットは、それは軽いんです。
イメージ 17



イメージ 12
(※7) Oreste Bernardoni
オレスト・バーナードニ
フランス人
ツーリストルーティエクラス参加
イメージ 13
(※8) Maurice Archambaud
モーリス・アーシャンボー
フランスナショナルチーム
背が1m54cmと小柄
1937年に1時間での最長記録を樹立、
5年後にファウスト・コッピに破られる
まで保持者だった。
との事です。
この写真では小さい人には見えませんね
イメージ 14
(※9) Benoît Faure ベノア・ファウル
フランス人
ツーリスト・ルーティエクラス参加
兄弟のウージェーヌも自転車選手
イメージ 15
(※10) Salvador Cardona
サルバドール・カルドナ
スペインナショナルチーム
1935,36年の
ツール・ド・エスパーニャ優勝



ーつづくー

この記事は、2016/2/11(木) 午後 1:53にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

2019年8月11日日曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その9

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Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

5ページ目下の解説記事部分のつづき

(茶色の文字が解読結果です。)



序盤のレース展開は、
二人のイタリア人の圧勝という結果は想像しにくいものだった。



コースの最初の峠、長くて緑に覆われたペルスールド峠で、
ベルギー勢は先頭を突き進んだ。

もう後がなく、声援を送らずにはいられない二人のイタリア人と、
ほか数人の選手を引き連れて。




ベルギー人のフェルファッケは、
持ち前の不規則で断続的に加速するような独特の走りで峠の頂上を首位で通り抜け、
ニースの男リュオズィ(※1)に2秒のリードを奪った。



イメージ 9



リュオズィは、トラブルにも全くひるむことなく今大会、好調を維持している。



(※1) Gabriel Ruozzi ガブリエ・リュオズィ
  フランス人 ツーリストルーティエクラス参加
  わっ!パンクしています。 今大会第2ステージの1シーン。



イメージ 1
うっ!またパンク。前ステージペルピニャンで。

























フェルファッケに20秒遅れて、
ロマン・マース、シルフェーレ・マース、ロウィエのベルギー勢、
二人のイタリア人、モレリ、ティアーニ、
アンベルグ(※2)、ジアネロ(※3)黒タイツが定番のスイス人ハートマン(※4)
通過。


(※2) Léo Amberg レオ・アンベルグ
  スイス人、個人参加。 Le site du Cyclisme

(※3) Dante Gianello ダンテ・ジアネロ
  ツーリスト-ルーティエクラス参加
  イタリア生まれで、1931年フランスに帰化。


(※4) Fritz Hartmann フリッツ・ハートマン
  スイス人、個人参加 真ん中の花を持っている人
de Wielersite



46秒遅れでドイツ人ウェッカリング(※5)
51秒遅れで
若いブリュターニュ人、柔らかく無理のない流れるようなフォームを続けるコガン(※6)
55秒遅れでやさ男ジャン・アールツ(※7)
1分15秒遅れで、ペルピニャン-リュションの後、登り調子のヴィエトが続いた。


 
(※5) Otto Weckerling オットー・ウェッカリング
  ドイツナショナルチーム
  この年のツール・ダルマーニュ
  (Tour d'Allemagne、ドイツ一周レース)優勝


(※6) Pierre Cogan ピエール・コガン フランス人
  つい最近、2013年98歳までお元気だったそうです。
  ツーリスト・ルーティエ参加


(※7) Jean Aerts ジャン・アールツ
  ベルギーナショナルチーム
  お洒落な襟元!


ーつづくー

この記事は、2016/1/23(土) 午後8:14にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。