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ウイングナット ペリシェ |
Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ
ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー
いろんな地名が出てきてややこしいので、
この辺で本ステージ、リュション―ポーのコースにある峠の整理を。
この図は、ピエール・ロックの「IL TAPPONE」を読んだ時の舞台コース説明図です。
5ページ目下の解説記事部分のつづき
(茶色の文字が解読結果です。)
ペルスールド峠からの下りでは、
選手たちが巻き上げるひどい砂埃の中を、我々は追いかけた。
この間何もレポートしようがない状況だったが、
それを抜けるとすぐアスパン峠の登りが始まった。
アスパン峠もペルスールド峠に似て、緑に覆われひんやりとした空気に包まれているが、
ペルスールドよりずっと厳しく、困難だった。
(この写真の説明文)
アスパン峠(1,489m)へ
その登りは、谷間に見えるアローの集落を出てすぐに始まった。
傾斜はきつく、それはこのショットからもよくわかる。
黒っぽいジャージのベルギー勢が引っ張るも、
スイス選手アンベルグ、ハートマン(白っぽいジャージ)とフランス人ジアネロも
まだ食い下がっている。
まだ食い下がっている。
(※)右奥の山々は、おそらく南東方向のスペインとの国境稜線。
アロー集落からアスパン峠への登りの拡大地図↓
上の写真は、最初の谷に入って、大きく折り返した途中あたりのショットでしょう。
(この写真の説明文)
アスパン峠へ
シルフェーレが手を伸ばして、ライバルの様子を伺う。
リュオズィ(右)、モレリとベルギー勢がその後に続く。
皆、この砂利道を全速力で進んでいる。
(※)前の写真から少し登ったあたりのショットかと。
(本文の続き)
ベルギー勢は、二人のイタリア選手を車列に割り込ませず、
自分たちが守るべきリーダのペースを乱されないように腐心した。
その甲斐あってしばらくはうまく事が運び、
アスパン峠の頂上を、
例のトリオ、ロマン・マース、フェルファッケ、シルフェーレ・マースが首位で通過。
例のトリオ、ロマン・マース、フェルファッケ、シルフェーレ・マースが首位で通過。
わずかに遅れてロウィエ、アンベルグ、ジアネロが通過した。
後続とのタイム差は、
ハートマンに1分15秒、
ポール・ショック(※1)、
見事な巻き返しでこの日の殊勲選手と言えるこのフランス人に2分10秒、
見事な巻き返しでこの日の殊勲選手と言えるこのフランス人に2分10秒、
2人のイタリア人、モレリとティアーニに2分20秒。
その後、
3分遅れでジャン・アールツ、
3分30秒遅れでたびたびパンクに見舞われたリュオズィ、
4分遅れでコガン、
6分5秒遅れでティエールバッハ(※2)、ファヨル(※3)、
プリオール(※4)、ステトラー(※5)、
プリオール(※4)、ステトラー(※5)、
7分30秒遅れでスペシェ、シャルル・ペリシェ(※6)、
バーナードニ(※7)、アーシャンボー(※8)、
ベノア・ファウル(※9)、カルドナ(※10)、
12分30秒遅れでハンドルが壊れてしまった"悲劇"のヴィエトが続いた。
(※6)Charles Pélissier シャルル・ペリシェ
ペリシェ3兄弟の3番目
1930年のツールで8ステージ勝利
1回で8勝はいまだにレコード
しかもその年2位が7ステージも!
とwikipediaにあります。
この年も第2ステージ勝利
個人参加
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ペリシェは自転車やパーツのブランドにもなっています。
ペリシェのウイングナットは、それは軽いんです。
(※8) Maurice Archambaud
モーリス・アーシャンボー
フランスナショナルチーム
背が1m54cmと小柄
1937年に1時間での最長記録を樹立、
5年後にファウスト・コッピに破られる
まで保持者だった。
との事です。
この写真では小さい人には見えませんね
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(※9) Benoît Faure ベノア・ファウル
フランス人
ツーリスト・ルーティエクラス参加
兄弟のウージェーヌも自転車選手
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ーつづくー
この記事は、2016/2/11(木) 午後 1:53にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。
加筆・修正し再掲載したものです。