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アントナン・マーニュ |
Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ
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10~11ページ目です。
文字の多いページです。
当時の読者が期待しているフランス勢の頑張りについて、
レース展開とは別に、紙面を割いてレポートしているようです。
(茶色の文字が解読結果です。)
ブラボー、スペシェ
このレース、ピレネーの峠の連続を孤独によく頑張った。
[特別配信]ポー、火曜日、スペシェを見つけた地点
スペシェは、ペルピニャン-リュションの前ステージでは、
やる気があるのかと首をひねるようなのらくらとした走りをして、
我々をひやひやさせ、時にはがっかりさえさせたが、
今ステージ、リュションとポーの間では、
あたかもそれは我々を欺くためだったとでも言うように、
見違えるようなパフォーマンス見せている。
たった24時間で、
聞き分けのないデカいガキから、頼りがいのあるガイに、
中身が完全に入れ替わったかのようだった。
が、そもそも彼は、レースを捨ててもいなかったし落胆もしていなかった。
見た目には判らなかったが、実はじっとチャンスをうかがっていたようだ。
闘志を前面に出すというより、スペシェはおそらく、内に秘めるタイプなのだろう。
このアスリートは、
はじめは生意気で、我儘で、衝動的にも見えたが、
実のところ、自分に期待された役割を必死に果たそうとするまじめな青年だ。
ペルピニャン-リュションの前ステージでの冴えない走りが批判を浴びたことに、
彼自身責任を感じていたし、
でもそれは調子が悪かったからであって、もっとできることを示したかったのだ。
スペシェは、
友人のアントナン・マーニュ(※1)、そう、最も尊敬、称賛され、
同世代のロード選手から特別な眼差しを集める彼の存在に勇気づけられた。
(※1) Antonin Magne アントナン・マーニュ
前年のツールの優勝者です。
Tonin le Sage(賢人トナン)、Tonin la méthode(戦術家のトナン)
などと呼ばれていたそうです。
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そのトナンは、
言い過ぎでもなく、かといって言葉足らずでもなく、とても説得力のある言い方で、
フランスのチャンピオン(※2)に効果的なアドバイスした。
(※2) スペシェも、ツール直前のフランスロードレース選手権で優勝。
マイヨ・トリコロールを手にしています。
「ツール・ド・フランスというレースはだな、
それは、決してあきらめず、決して投げ出さず、
最後の1秒まで挑戦し続け、勇敢に戦いつづける試練なんだ。
その結果勝てなかったとしても、しっかり胸を張っていいんだ。」
ジョルジュ・スペシェは勇気をもらって、
人が変わったように、ピレネーの四峠で健闘した。
相変わらず本来からは程遠い状態であるにも関わらずだ。
このレースの大半を単独で走り、自らの意志で他の支援を断ち、
スペシェは、他のどの山岳ステージよりも素晴らしいレースをした。
オービスク峠を下った先の、真っ直ぐで猛烈なスピードが出るポーへの道は、
単独はつらい。
誰か一人くらい風をよけて引っ張ってくれるチームメイトがほしかった。
それでも、ツール・ド・フランスで最も厳しいこのステージで、
ロマン・マースとの差を縮めてみせた。
彼にとって、マイヨジョーヌはまだ手の届くところにある。
(写真の説明文)
砂埃の中を走るシャルル・ペリシェと、その後ろを走るスペシェ。
サント=マリー・デ・カンパン(※3)のさきで。
(※3) 現在のカンパン、アスパン峠とトゥルマレ峠の谷間の集落と思われます。
(写真の説明文)
スペシェ、彼に向けられる沿道の拍手は、
アルジェレスで大きく離されてしまっても、決して小さくはない。
観客がジェスチャーで何分遅れかを教えてくれる。
(※) 5分遅れですかね?
ーつづくー
この記事は、2016/3/6(日) 午後10:28にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。