2019年8月12日月曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その12



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アントナン・マーニュ


















Le Miroir des sports
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




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10~11ページ目です。

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文字の多いページです。
当時の読者が期待しているフランス勢の頑張りについて、
レース展開とは別に、紙面を割いてレポートしているようです。



(茶色の文字が解読結果です。)

ブラボー、スペシェ
このレース、ピレネーの峠の連続を孤独によく頑張った。

[特別配信]ポー、火曜日、スペシェを見つけた地点




スペシェは、ペルピニャン-リュションの前ステージでは、
やる気があるのかと首をひねるようなのらくらとした走りをして、
我々をひやひやさせ、時にはがっかりさえさせたが、
今ステージ、リュションとポーの間では、
あたかもそれは我々を欺くためだったとでも言うように、
見違えるようなパフォーマンス見せている。



たった24時間で、
聞き分けのないデカいガキから、頼りがいのあるガイに、
中身が完全に入れ替わったかのようだった。




が、そもそも彼は、レースを捨ててもいなかったし落胆もしていなかった。
見た目には判らなかったが、実はじっとチャンスをうかがっていたようだ。

闘志を前面に出すというより、スペシェはおそらく、内に秘めるタイプなのだろう。




このアスリートは、
はじめは生意気で、我儘で、衝動的にも見えたが、
実のところ、自分に期待された役割を必死に果たそうとするまじめな青年だ。




ペルピニャン-リュションの前ステージでの冴えない走りが批判を浴びたことに、
彼自身責任を感じていたし、
でもそれは調子が悪かったからであって、もっとできることを示したかったのだ。



スペシェは、
友人のアントナン・マーニュ(※1)そう、最も尊敬、称賛され、
同世代のロード選手から特別な眼差しを集める彼の存在に勇気づけられた。





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(※1) Antonin Magne アントナン・マーニュ
前年のツールの優勝者です。
Tonin le Sage(賢人トナン)、Tonin la méthode(戦術家のトナン)
などと呼ばれていたそうです。

そのトナンは、
言い過ぎでもなく、かといって言葉足らずでもなく、とても説得力のある言い方で、
フランスのチャンピオン(※2)に効果的なアドバイスした。

(※2) スペシェも、ツール直前のフランスロードレース選手権で優勝。
   マイヨ・トリコロールを手にしています。



「ツール・ド・フランスというレースはだな、
それは、決してあきらめず、決して投げ出さず、
最後の1秒まで挑戦し続け、勇敢に戦いつづける試練なんだ。
その結果勝てなかったとしても、しっかり胸を張っていいんだ。」



ジョルジュ・スペシェは勇気をもらって、
人が変わったように、ピレネーの四峠で健闘した。
相変わらず本来からは程遠い状態であるにも関わらずだ。



このレースの大半を単独で走り、自らの意志で他の支援を断ち、
スペシェは、他のどの山岳ステージよりも素晴らしいレースをした。



オービスク峠を下った先の、真っ直ぐで猛烈なスピードが出るポーへの道は、
単独はつらい。
誰か一人くらい風をよけて引っ張ってくれるチームメイトがほしかった。



それでも、ツール・ド・フランスで最も厳しいこのステージで、
ロマン・マースとの差を縮めてみせた。

彼にとって、マイヨジョーヌはまだ手の届くところにある。



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(写真の説明文)

砂埃の中を走るシャルル・ペリシェと、その後ろを走るスペシェ。
サント=マリー・デ・カンパン(※3)のさきで。

(※3) 現在のカンパン、アスパン峠とトゥルマレ峠の谷間の集落と思われます。



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(写真の説明文)

スペシェ、彼に向けられる沿道の拍手は、
アルジェレスで大きく離されてしまっても、決して小さくはない。
観客がジェスチャーで何分遅れかを教えてくれる。

(※) 5分遅れですかね?



ーつづくー

この記事は、2016/3/6(日) 午後10:28にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。