2019年8月13日火曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その14


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




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10~11ページ目のつづきです。

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(写真の説明文)

トゥルマレの頂上の交差点を越え、バレージュへ下ろうとするポール・ショック。
彼は、アルミボトルの水を温存するいい手を見つけた。



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(※) ギャラリーのワインをもらって飲んでる? 余計にのどが渇くのでは...
自転車についているボトルケージは、サンプレでしょうか?




11ページの記事部分、②下、③、④の上です。
イメージ 3

(茶色の文字が解読結果です。)


ポール・ショック
トゥルマレとオービスクを、フランス選手の中で一番に通過した男




この厳しい山岳ステージで、サプライズと言える選手は何人かいたが、
若いポール・ショックもその中の一人として触れてもよいだろう。




彼はペルスールドで健闘し、その後もずっといい位置につけ、
特にアスパン峠では、
モレリ、ティアーニとフェルファッケのすぐ後ろに食い下がるなど、
フランス選手の中で最高のパフォーマンスを見せていた。


パンクに見舞われたためにオービスクでは7位、
時間にしてイタリア勢に9分遅れだったが、
それでもずっとフランス勢の中では先頭だった。



ポールショックは、この日、まちがいなく輝いていた。




彼は私たちの取材に次のように答えた。


ーとてもうれしいよ。
 自分の力を証明することができたんだからね。

 憶えてるよね?
 エクス(※)ーグルノーブルのステージでも、
 ガリビエ峠の頂上を8位で通過したんだぜ。

(※) エクス=レ=バンからグルノーブル
   第7ステージ 229km

 僕はこのとおり、ひょろっとしてるし顔だって細面だ。
 スタミナもパワーもなさそうなのに、ツールになんか耐えられるわけがないと
 みんなに思われているかもね。

 所詮グランプリ・ウォルバー(※1)の王者だろ? なんて陰口を言われて、
 1933年シーズンは全く相手にされなかったんだ。



(※1) Grand Prix Wolber
  1922に始まった非公式の世界選手権大会。略してGP Wolber。
  1927年に世界プロ選手権が始まると権威を失い、
  1934年に終わりを告げたそうです。
  https://fr.wikipedia.org/wiki/GP_Wolber

  1933年に”GP Wolberの王者”というと、
  注目に値しないやつという意味だったのでしょう。
  しかし、そんな風に言うとGP Wolberが可哀そうな気が。



 1934年に、今度こそはと汚名返上を誓ったんだけれど、
 やっぱりツール出場は叶わなかった。

 でも今年、ミロワール・デ・スポールが推薦してくれたおかげで、
 ツーリスト・ルーティエクラスで出場できるようになったんだ。

 知らされたのがぎりぎりだったんで、準備が間に合わなかったよ。

 だからスタート時は万全じゃなかったけれど、
 山岳は得意なので、コース詳細や最適ギヤ数が分らなくても、
 任せてくれって感じだった。

 そしてその結果、僕はこうしてポーにいるだろ。


 できればこのままの調子を最後まで続けて、
 僕がツールを完走できないなんて
 二度と言われないようにしたいんだ。


 来年は、ツーリスト・ルーティエよりもっと上のクラスで出場したいな。
 今から名乗りを上げておくよ。 絶対に期待に応えるから。

R.H.


(※) やはりプロのロードレース選手なら、
  ツールドフランスは、何が何でも出場したい大会なんでしょうね。
  当時参加する一人ひとりに、それぞれの思いがあった事が分ります。
  そして今も同じなのでしょう。

  ポール・ショックは、
  残念ながら翌1936年のツールには出場できませんでしたが、
  ボルドー-パリでは優勝しました。

  翌々年1937年のツールでは、
  晴れてフランスナショナルチームのメンバーとして出場し、
  第16ステージと18ステージを制して、総合7位の好成績を上げています。
  https://fr.wikipedia.org/wiki/Paul_Chocque



ーつづくー


この記事は、2016/4/16(土) 午後5:30にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。