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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ
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10~11ページ目のつづきです。
(写真の説明文)
トゥルマレの頂上の交差点を越え、バレージュへ下ろうとするポール・ショック。
彼は、アルミボトルの水を温存するいい手を見つけた。
(※) ギャラリーのワインをもらって飲んでる? 余計にのどが渇くのでは...
自転車についているボトルケージは、サンプレでしょうか?
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11ページの記事部分、②下、③、④の上です。
(茶色の文字が解読結果です。)
ポール・ショック
トゥルマレとオービスクを、フランス選手の中で一番に通過した男
この厳しい山岳ステージで、サプライズと言える選手は何人かいたが、
若いポール・ショックもその中の一人として触れてもよいだろう。
彼はペルスールドで健闘し、その後もずっといい位置につけ、
特にアスパン峠では、
モレリ、ティアーニとフェルファッケのすぐ後ろに食い下がるなど、
フランス選手の中で最高のパフォーマンスを見せていた。
パンクに見舞われたためにオービスクでは7位、
時間にしてイタリア勢に9分遅れだったが、
それでもずっとフランス勢の中では先頭だった。
ポールショックは、この日、まちがいなく輝いていた。
彼は私たちの取材に次のように答えた。
ーとてもうれしいよ。
自分の力を証明することができたんだからね。
憶えてるよね?
エクス(※)ーグルノーブルのステージでも、
ガリビエ峠の頂上を8位で通過したんだぜ。
(※) エクス=レ=バンからグルノーブル
第7ステージ 229km
僕はこのとおり、ひょろっとしてるし顔だって細面だ。
スタミナもパワーもなさそうなのに、ツールになんか耐えられるわけがないと
みんなに思われているかもね。
所詮グランプリ・ウォルバー(※1)の王者だろ? なんて陰口を言われて、
1933年シーズンは全く相手にされなかったんだ。
1922に始まった非公式の世界選手権大会。略してGP Wolber。
1927年に世界プロ選手権が始まると権威を失い、
1934年に終わりを告げたそうです。
https://fr.wikipedia.org/wiki/GP_Wolber
1933年に”GP Wolberの王者”というと、
注目に値しないやつという意味だったのでしょう。
しかし、そんな風に言うとGP Wolberが可哀そうな気が。
1934年に、今度こそはと汚名返上を誓ったんだけれど、
やっぱりツール出場は叶わなかった。
でも今年、ミロワール・デ・スポールが推薦してくれたおかげで、
ツーリスト・ルーティエクラスで出場できるようになったんだ。
知らされたのがぎりぎりだったんで、準備が間に合わなかったよ。
だからスタート時は万全じゃなかったけれど、
山岳は得意なので、コース詳細や最適ギヤ数が分らなくても、
任せてくれって感じだった。
そしてその結果、僕はこうしてポーにいるだろ。
できればこのままの調子を最後まで続けて、
僕がツールを完走できないなんて
二度と言われないようにしたいんだ。
来年は、ツーリスト・ルーティエよりもっと上のクラスで出場したいな。
今から名乗りを上げておくよ。 絶対に期待に応えるから。
R.H.
(※) やはりプロのロードレース選手なら、
ツールドフランスは、何が何でも出場したい大会なんでしょうね。
当時参加する一人ひとりに、それぞれの思いがあった事が分ります。
そして今も同じなのでしょう。
ポール・ショックは、
残念ながら翌1936年のツールには出場できませんでしたが、
ボルドー-パリでは優勝しました。
翌々年1937年のツールでは、
晴れてフランスナショナルチームのメンバーとして出場し、
第16ステージと18ステージを制して、総合7位の好成績を上げています。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Paul_Chocque
ーつづくー
この記事は、2016/4/16(土) 午後5:30にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。