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2019年8月14日水曜日

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その22


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー


14~15ページです。
14ページは水泳の記事です。15ページを解読しましょう。




15ページ上写真
イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)

あん? もっとカメラから離れろってか?

ムッシュー・アンリ・デグランジュは、
カメラマンにわざと噛みつくように言った。

”ツールの父”のその言葉に、
国内外のジャーナリスト、大会役員、アントナン・マーニュ(杖の人)の皆が笑った。




イメージ 2
(※) アンリ・デグランジュは、こっち向いて噛みついている爺さんです。



15ページ中段は、記録一覧




15ページ下の挿絵
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山岳地の寒暖の差の恐ろしいこと。
このステージのスタートでは半袖だったが、すぐに防寒服を着こむことになった。




イメージ 2
選手が到着するまでの間、地元の写真屋のひな壇は団体客が絶えることがない。

街道の巨人が宿泊するホテルの前では、
若いファンが直筆サインをもらおうと待ち構えている。

RED TdF 1935

(※) REDというのは、当時の画家、漫画家です。



イメージ 3

「ツールドフランスの画家、漫画家」という本があって、
その中で紹介されています。

イメージ 4


ミロワール・デ・スポール 長期間掲載

RED

ミロワール・デ・スポール誌のツール発展期の代名詞
古き良き時代のユーモアコラムのような素朴な視点
子供のころ親しんだポエムを思いだす筆致
ツールがくる日の皆のざわめき
ツールのきらきらした光景
大レースへの素直な賛美と、少し冷めた嘲い


本名ルネ・エミール・デュロン・ロワ(1894-1970)。
DERと署名することもある彼は、
15年もの間ツールの全コースをジャック・ゴデと一緒に回り、
REDの名でポエムの世界を展開した。


短時間で書き上げるため、硬い印象を与える細線の描写だが、
境界線をなくして、様々な場面を所狭しと書き並べるスタイルは、
どこから読んだらよいのかぼんやりしているが、
そこがまたこの絵の世界に合っていもいる。



ツールの画家、漫画家で有名どころのそろい踏みの図です。
REDは下段の右から3番目。
イメージ 5

自転車にとどまらず多くの挿絵を描き、文字と写真がほとんどのスポーツ誌面に
遊び心を添えました。



ーつづくー

この記事は、2016/12/18(日) 午後5:02にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その21


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2



13ページ下段
イメージ 1
(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-6- フランスチームの課題



では、われらフランス勢の課題は何だろうか?
みなもう、やる気が失せているかと心配したが、雰囲気は妙に明るい。




彼らはまだ、スペシェがツールの総合優勝者になるかもしれないと、
希望を捨てていないようにも見える。




しかしそれをやってのけるための、マキャヴェリなみの秘策(※1)
あるとも思えない。 全く謎だ!


(※1) 裏切りや欺きもいとわないような、
  びっくりする戦略という意味ですね。



ルデュック、ル・グレヴェ、モアノー、ヴィエト、フォントネー、アーシャンボー
と同じように、スペシェまでもが皆一様に、こう言っている。




「諦めるのはまだ早いさ。
 まだ何が起こるかわからないし、みんなもそれを期待しているんだろ。」



イメージ 2
1935年7月2日 第29回ツール・ド・フランス直前号の表紙
フランスナショナルチーム集合写真





イメージ 3
左から、アーシャンボー、(まじめで賢そうなアドバイザー)マーニュ、
(王選手に似た)スペシェ、ルデュック、(クラーク・ケント風の)ドゥベンヌ、
ル・グレヴェ、(男前)ヴィエト、メルヴィエル




イメージ 4
表紙をめくると、各選手の走っている姿が並べられた洒落た誌面



フランスチームの戦略は、
怪我で戦線離脱したアントナン・マーニュが受け持っているのだが、
選手たちの様子を見ていると有効な手が打つことができているのか
心配になる。




アーシャンボーは、ツール後に、
l’U.V.F.(※2)から推挙されて、スペシェやル・グレヴェと一緒に、
ブリュッセルで開催されるトラック世界選手権に出場することになっているのだが、
マーニュが特に指導しているはずなのにこんな冗談まで言い出す始末だ。


(※2) l’U.V.F Union Vélocipédique de France
  フランス自転車連合 今のFFCの前身です。



「あーついてない。
 この大会が終わったら釣りにでも行こうと思っていたのに、
 パリまで戻ったらその足で次の大会に出発するんだよ。
 ああ忙しい!」



レイモン・ユティエ


(※) レイモン・ユティエは、
  自国チームの選手たちが、必ずしもツールに集中できていないことを
  嘆いているようです。



ーつづくー

この記事は、2016/12/10(土) 午後7:10にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。

ツール・ド・フランス 1935年 ピレネーステージ その19


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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ




ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー ◇ ーーー

12~13ページです。
イメージ 2



12ページ最下から13ページ上
イメージ 1

(茶色の文字が解読結果です。)


ポーへのステージ よもやま話

-3- ロマン・マースは叫んだ




リュションをスタートする時、
ツールの事務責任者のリュシアン・キャザリス(※1)は、
ロマン・マースがゼッケンを付けていないのをじっと目で追いかけ、
古風な呼び止め方をした。


「エーラ! 君君!ゼッケンを付け忘れたのか!」


(※1) Lucien Cazalis
こんな堅物で大声で、少しピントのずれたイメージの人物だったようです。
Mon Tour de France 1959  のちょうど真ん中あたりの漫画↓
イメージ 2



小柄なロマン・マースは、乗車したまま若鶏のように上体で向きなおり、
着ているマイヨジョーヌを指でつまんで、笑ったような怒ったような表情で答えた。



「そっちからこの黄色いのを着ろと言われたんだが、
 こいつにまでナンバーが要るのか?」



-4- キャプテンはなんとか首位を守った。


そのロマン・マースだが、
リュション-ポーのステージで彼がマイヨジョーヌを失わなかったのは、
繰り返すようだが、本当に奇跡としか言いようがない。




ベルギーチームのキャプテンである彼は、
前のステージでのくたくたの状態のままで、このレースに臨んでいたからだ。




昨夜もポーで、それを裏付けるような話を耳にした。




バッテバテのロマン・マースは、
こっそりサポートカーに引っぱってもらっていたらしく、
間の悪いことに、その様子が写真にしっかり撮られていたというのだ。




ほかにも、
年配の観客の頭の上に空のボトルを置こうとして、
誤って彼の眼鏡を壊し、あやうく事故になりかけたらしい。




これはまあファンサービス、シャッターチャンスサービスのつもりだったのだろう
という事で笑い話で済んだが、
車に引っぱってもらった件については、
コミッショナーとしても大袈裟にはしたなかったものの、
写真が撮られてしまった以上放っておくわけにもいかず、
結局、サポートカーにペナルティーが科せられた。




そのサポートカーは、
ジャン・アールツ、シルフェーレ・マース、フェルファッケなど
ロマン・マースと同じフラマン人のための車であり、
ペナルティの内容によっては、さらに自分たちが苦しくなる。




こんな風にロマン・マースが何とか首位にいるのは、
チームメートやスタッフの並々ならぬ支えによるものなのだ。




(※) ペナルティを受けたサポートカーは、こんなクラシックカーなんでしょうね。



ーつづくー

この記事は、2016/10/16(日) 午後0:51にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。