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Le Miroir des Sports誌
1935年7月25日号
ツール・ド・フランス第16ステージ
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12~13ページです。
12ページの下段
(茶色の文字が解読結果です。)
ポーへのステージ よもやま話
-2- ついてないリュオズィ
ニースっ子、ギャビー・リュオズィは、
今回のツール・ド・フランスの間ずっと、信じられない不運に付きまとわれた。
どの山岳ステージでも彼は間違いなくトップクライマーの一人だったが、
同時にどうしようもなくツキのない選手でもあった。
そしてそれは、
他のどの山岳ステージより厳しいピレネーステージでも、相変わらずだった。
ペルスールド峠で、
リュオズィはフェルファッケと共に先頭で通過したが、その下りで1回目のパンク。
アスパン峠の頂上では、
先頭から3分30秒差で通過した直後に再度パンク。
そして、気を取り直して下りはじめて300mでまたパンク。
もう予備タイヤも底をつき、手の施しようがなくなって、
さすがにこの時は、自転車を側溝に落としたまま頭を抱え、
リタイヤを覚悟した。
捨てる神あれば拾う神あり。
その時、心優しいベノア・フォーレが立ち止まり、
ツーリスト・ルーティエクラスのライバルでもあるリュオズィに、
予備のタイヤを投げ渡してくれたのだった。
まるで、溺れる者に浮き輪を投げるように。
(※) Miroir des Sportsではパンクは不運で片づけられてますが、
Match l'Intranではパンクの様子がいっぱいレポートされています。
待ちかまえていたかのような手際良さ!
ロマン・マースは、パンクに次ぐパンクでタイヤ交換に追われた。
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ペルスールド峠への登りで、アーシャンボーがパンクでタイヤ交換。
モアノーは一緒に行こうと、向こうでゆっくり走って待っている。
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シルフェーレ・マースは、トゥルマレ峠からの下りでパンクするが、
わき目もふらず必死でタイヤ交換した。
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(※) この当時、山岳ステージは舗装されているわけでもなく、
パンクは不運というよりはむしろ、想定すべき出来事だったようです。
パンクしないように注意して走るとか、素早くタイヤ交換できることも
大切なテクニックの一つだったかもしれません。
単なる想像ですが、もしかすると、
モレリ、ティアーニなどイタリア勢が勝ったのも、
Giro d'Italiaで悪路の山岳ステージに慣れていて、
多少重くても丈夫なタイヤを使っていたというようなこともあったのかも。
ーつづくー
この記事は、2016/9/19(月) 午後6:39にYahooブログに掲載した記事に
加筆・修正し再掲載したものです。